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第5話 危険なお母様には、しばらく会わせられません

last update publish date: 2026-08-11 14:12:46

 奏汰はまだ、私を睨んでいた。 

「ママ、僕を捨てたの?」

「どうして僕を放っておいて?」

  傷だらけの奏汰が、泣きながら私に問いかける。

「違う……」

  私は必死に首を振った。

「ママは、あなたを――」

  ぱっと、目を覚ました。

  夢か。

  頬の傷は、朝になっても熱を持っていた。

 昨夜は、父が昔の会社の近くに残した小さな部屋で夜を明かした。

 研究室に泊まり込むための部屋だった。結婚するとき、正臣は「もう、ここへ泊まりに戻る必要はない。これからはあの屋敷が君の家だ。何も心配しなくていい。僕が一生、大切にする」と笑った。

 あの頃は、もうここへ戻る日は来ないと思っていた。

 けれど、父と机を並べて夜を明かした部屋だ。鍵を手放すことだけは、できなかった。

 バッグの底に残したまま、八年が過ぎた。

 一生大切にすると言った正臣に追い出されて、私はその鍵でドアを開けた。

 鍵がなければ、門の前で朝を待っていた。

 鏡を見ると、細い赤い線が斜めに残っていた。指で触れると、まだ痛い。

 それでも私は、先に奏汰の学校へ向かった。

 今日は初等部の発表会だった。

 奏汰は舞台で、恐竜の研究発表をする。スライドの順番を一緒に確認したのは、私だ。緊張すると早口になるから、最初の一文だけゆっくり読む練習もした。

 受付で名前を告げると、事務員が困った顔をした。

「久条奏汰くんの保護者席は、もうご家族様がお入りです」

「母です」

「ですが、こちらには……」

 彼女が名簿を隠す。

 その先に、莉乃の名前が見えた。

 体育館へ入ると、正臣が最前列にいた。その隣に莉乃。奏汰の予備のカーディガンと、青い恐竜の飾りがついた薬袋を膝に置いている。

 奏汰が五歳の時に選び、私が袋へ縫いつけた飾りだった。

 莉乃が、自分のもののように薬袋を開けている。

「奏汰」

 舞台袖にいた奏汰が振り返る。

 私を見ると、一瞬だけ表情が揺れた。すぐに正臣のほうを見る。

「ママ、来ないで」

 周りの保護者がこちらを見た。

「莉乃さんがママでいい」

 細い声だった。

 けれど、よく通った。

 私は唇を噛んだ。

 奏汰を責めてはいけない。八歳の子どもが、父親と家の大人に囲まれている。ゲームを許してくれる人、チョコをくれる人、病院を忘れさせてくれる人。その人を優しいと思うのは、子どもなら自然だ。

 でも、自然だから痛くないわけではない。

「奏汰。今日は終わったら、薬の確認を」

「莉乃さんがやってくれる」

 莉乃が立ち上がった。

「奥様、奏汰様は今日は緊張しています。刺激しないであげてください」

「その薬袋に触らないで」

「正臣様からお預かりしています」

「奏汰は朝の薬を飲んだの?」

「もちろんです」

「朝ごはんは、どれだけ食べた?」

 莉乃の口が止まった。

「腹痛は? 起きた時の顔色は?」

「そこまで神経質にならなくても……」

「答えられないなら、母親のふりをしないで」

 正臣が私の前に立った。

「学校で騒ぐな」

「奏汰の薬を返して」

「君には会わせないほうがいいと、弁護士も言っている」

 その言葉で、後ろからスーツの男が近づいた。

 久条家の顧問弁護士だった。

「灯里様。昨夜の件もあります。ご自身でも制御が難しい状態では?」

「皿を投げたのは正臣です」

「親族の証言では、あなたが食卓を乱し、破片で怪我をされたと」

 息が浅くなる。

 証言。

 あの場にいた全員が、正臣側の証人になる。

 弁護士は封筒から一枚の紙を出した。

 医師の判が入っている。

「こちらの診断書では、強い興奮状態と衝動性が認められています」

「何、それ」

 紙を奪うように見た。

 私の名前と、急性ストレス反応の文字。

 母子接触は当面不適切、という一文。

「私、こんな診察を受けていない」

「ご家族から十分な聞き取りをしています」

「診察していないのに、診断書?」

 声が低くなった。

「私はこの医師に会っていない。問診も受けていない。なのに、どうして私の診断名が出るの」

「灯里様、落ち着いてください」

「落ち着けと言えば、診断書の中身が本当になるの?」

 弁護士は唇を結んだ。

「裁判所から、私を奏汰に会わせるなと命令が出たの?」

 弁護士はすぐに答えなかった。

「まだ、出ていません」

「なら、この紙だけで私を母親ではないことにするの?」

「奏汰様の安全を優先しているだけです」

 私は診断書を弁護士へ返した。

「私を診てもいない人の名前で、私から奏汰を取り上げないで。それに、皿を投げたところを、全員が見ていたでしょう」

「親族の皆様は、あなたが先に騒いだとおっしゃっています」

 皆様が。

 私の味方は誰もいないんだろうか。

 発表の開始ベルが鳴った。

 奏汰が舞台へ出る。一枚目のスライドが映った。

 少し早い。

 でも、読めている。

 奏汰が一度だけ腹に手を当てた。

 緊張? 朝の薬? 莉乃は朝ごはんの量も答えられなかった。

 先生に聞くしかない。

 私は体育館の隅へ下がり、奏汰の主治医へ電話した。

「母です。奏汰の薬と次の検査について、先生に確認したいことがあります」

「申し訳ありません。奥様から、ご本人以外への取り次ぎは控えるようにと」

「私がそうですけど」

 がちゃん、と音がして、通話が切れた。

 奏汰の主治医への道まで、ふさがれた。

 奏汰と私をつないでいたものが、ひとつずつ奪われていく。

 発表が終わり、奏汰が莉乃のもとへ走った。

 私はもう一度、奏汰へ近づこうとした。

 弁護士が、私の前を塞いだ。

「危険なお母様には、しばらく会わせられません」

「危険なのは私じゃなくて、この女よ!」

 周囲から、冷たい視線が向けられた。

 奪われたのは私なのに。

 莉乃は奏汰の肩を抱き、にやにや私を見た。

「灯里さん、お疲れなんですわ。少し休まれたほうが」

「黙りなさい」

 莉乃は笑った。

「安心して。奏汰くんは、私がちゃんと面倒を見ますから」

  パシンッ。

  乾いた音が響いた。

  私の手が、莉乃の頬を打っていた。

 莉乃は頬を押さえ、呆然と私を見つめた。

「どうして……私を叩くんですか」

 その目にすぐ涙が浮かんだ。

「どうしてって……お前に聞く資格がある? お前は元々――」

 正臣が一歩前へ出た。

「もうたくさんだ。これ以上騒ぐなら、警察を呼ぶ」

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  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第45話 勝つまで、キスも我慢するつもりか

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